東京地方裁判所 平成7年(合わ)204号 判決 1998年2月26日
主文
被告人を懲役一〇年に処する。
未決勾留日数中七七〇日を刑に算入する。
理由
(認定事実)
被告人は、宗教法人オウム真理教(以下「教団」という。)に所属していたいわゆる出家信者であり、教団内部において、師と称する幹部の地位にあった。
第一 平成六年一月三〇日午前三時ころ、教団を脱会した元信者であるY1及びO(当時二九歳)が、山梨県西八代郡上九一色村富士ヶ嶺<番地略>・同<番地略>にある第六サティアンと称する教団施設(以下「第六サティアン」という。)で治療を受けていたY2の母親を連れ出そうとし、教団信者らに催涙ガスを噴射するなどしたことから、教団代表者であったM’ことMは、これを教団に敵対する行為であるなどとして、YをしてOを殺害させることとした。
被告人は、右Mの意を受け、同人及び教団幹部であったN、I、P、Qら並びにMの指示を受けたY2と共謀の上、Oを殺害しようと企て、そのころ、同村富士ヶ嶺<番地略>にある第二サティアンと称する教団施設(以下「第二サティアン」という。)三階の「尊師の部屋」と呼ばれる瞑想室において、Yが、手錠を掛けられたまま座らされたOに対し、ガムテープで目隠しをし、その頭部にビニール袋を被せた上で右袋内に催涙ガスを噴射し、さらに、Oの頚部にロープを巻いて絞め付け、この間、被告人らが暴れて抵抗するOの身体を押さえるなどし、よって、そのころ、同所において、Oを窒息死させて殺害した。
第二 被告人は、教団の幹部であった前記I、教団信者で医師であったS、看護婦であったD、教団信者であったV、Cらと共謀の上、V、Cの父親であるK(当時六三歳)から、教団に対するいわゆるお布施の名目で、同人の預金を払い戻して多額の金員を提供させるなどの目的で、同人の意思に反して同人を教団施設に拉致しようと企て、同年三月二七日から同月二八日にかけての深夜、宮崎県小林市大字細野<番地略>にある「F旅館」ことK方二階居室において、就寝中の同人に対し、薬物を用いて半昏睡状態に陥れ、直ちに同所から同人を抱えて屋外に運び出し、同所付近に停車させていた普通乗用自動車後部座席に押し込み、同人を半昏睡状態に陥れたまま同車を疾走させ、さらに同月二八日の午前中、岡山県内の中国縦貫自動車道新見インター付近において別車両に移し替えるなどし、同日夕刻ころ、前記第六サティアンに連れ込み、もって、営利の目的でKを略取した。
(証拠)<省略>
(補足説明)
第一 公訴権濫用による公訴棄却の申立てについて
弁護人は、本件公訴が、オウム真理教の殲滅を目的として、逮捕時オウム真理教の郵政省次官などと肩書きのついた被告人にいわゆる管理責任を問うべくなされたもので、被告人自身の犯罪行為を裁判の対象としたものではなく、公訴提起の目的を逸脱したものであるから、公訴権濫用として本件公訴を棄却すべきである旨主張する。
しかしながら、本件記録を精査しても、検察官の本件公訴提起が、その裁量権の範囲を逸脱し、公訴提起を無効とすべき場合にあたることを窺わせる事情は全く認められないから、弁護人の主張は採用することができない。
第二 判示第一の殺人について
一 被告人は、Mらと殺人の共謀をしたことはなく、また、その実行行為をした事実もないから無罪であると供述し、弁護人も同趣旨の主張をするので、この点について検討する。
二 関係証拠によれば、以下の事実を認めることができる。
1 被告人は、平成六年一月当時、教団のいわゆる出家信者であり、師という幹部の地位にあったが、師になった時期が遅かったことから、幹部の中では比較的下位にあった。
2 Y1(以下「Y」という。)は、平成四年春ころ教団を脱会した元信者であったが、その母親であるY2(以下「Y2」という。)がパーキンソン病の治療のため、オウム真理教附属医院に入院していたところ、平成六年一月二四日ころ、同医院の薬剤師で、教団を脱会してきたOから、Y2に対する教団の治療方法が適切でないので、Y2を連れ戻そうと持ちかけられ、これを承諾した。
3 同月三〇日、Y1とOは、Y1の父親が運転する車で第六サティアンに行き、同日午前三時ころ、第六サティアン三階の医務室からY2を連れ出そうとしたが、教団信者に発見され、催涙ガスを噴射するなどして抵抗したものの、結局は取り押さえられた。被告人は、そのころ、第六サティアン三階にある個室にいたが、騒ぎに気付いて現場に赴いたところ、教団信者に取り押さえられている者がおり、周囲にいた信者の話から、それがY1とOで、両名は、Y2を連れ出そうとして同サティアンに侵入し、催涙ガスを噴射したことなどを知った。
4 その後、Y1とOは、前手錠を掛けられるなどし、Nの指示によりワゴン車に乗せられ、第二サティアンに連行された。他方、Y1とOの侵入を知った教団代表者で、教祖の地位にもあったM’ことMも、Qの運転する車で第二サティアンに向かった。被告人も、当時、教団東京本部長をしていたIに第二サティアンまで車に乗せて行ってほしいと頼まれ、Iを乗せて第二サティアンに赴いた。
5 Y1とOは、第二サティアンに連行された後、同所三階のエレベーター前付近踊り場において待機させられ、Rらが監視していた。
6(一) Mは、第二サティアンに着くと、同所三階の「尊師の部屋」に入り、Oが所持していたウエストバッグの中身や、Oらの行動について報告を受けた後、その場に集まった教団幹部であるB、N、I、Q、被告人らに対して、「これからポアを行おうと思うが、どうか。」などと、OとY1の両名を殺害する趣旨のことを言い、意見を求めたところ、B、Nらが、「殺すしかない。」、「仕方ないですね。」などとMの意向に賛成する旨の意見を述べ、反対の意見を述べた者はいなかった。被告人は、この会話から、MがOらを殺害しようと考えていることがわかり、特に意見を述べなかったものの、教祖であるMや、被告人より教団内における地位の高いB、Nらの意見を受け入れ、Oらを殺すことになっても仕方がないと考えた。その後、Mの指示で、Y1が「尊師の部屋」に呼び入れられ、Y1を監視していたRも一緒に室内に入った。
(二) この点につき、被告人は、公判廷において、車で第二サティアンに到着した後、Iは直ちに「尊師の部屋」に向かったが、被告人は、車を移動させ、疲れていたため車内で休息しており、五分か一〇分位してから、気になって「尊師の部屋」に入ったので、被告人が室内に入ったのはY1が室内に入れられる直前であり、(一)の場面には同席していなかったと供述する。
しかし、Qは、Oの持ち物等に関する報告やMからのOらを殺害する旨の話が出たときには、被告人も「尊師の部屋」の中にいたと明確に供述しているところ、Qの供述は、具体的かつ詳細であり、その内容に不自然、不合理な点がなく、あえて虚偽の供述をしなければならない理由も必要性もないことに加え、その場に被告人がいたことが記憶に残っている理由についても、被告人がそれまで非合法活動に関与したことがなかったので、被告人がここにいてよいのかなと思って記憶に残っている旨具体的に述べているのであって、納得のいくものであり、信用性が高いと考えられる。また、第二サティアン三階エレベーター前の踊り場でY1らを監視しながら待機し、Y1とともに「尊師の部屋」に入ったRも、待機中に被告人がその場を通り過ぎたことはなく、室内に入ったときには被告人もいたとQの供述を裏付ける供述をしている。
ところで、被告人は、捜査段階においては、Iとともに「尊師の部屋」に入り、ZがOのウエストバッグに入っていたものを説明した後、Mから、「二人とも始末するしかないかな、どうか。」あるいは「二人とも殺すしかないかな、どうか。」と言われ、被告人自身は発言はしなかったものの、仕方がないと思ったなどと(一)の認定に沿う供述をしている。被告人の捜査段階における供述は、明確に記憶に残っている部分とそうでない部分を分けた上で、記憶にある部分については、被告人の当時の思いや感想を交えて具体的に述べられており、内容的にも、他の関係者の供述と異なる被告人独自の供述部分もあることなどからして、被告人の捜査段階の供述調査は、被告人がその記憶に従って供述した内容を録取したものと認められる。「尊師の部屋」に入ってから、Y1が入室するまでの供述についても、被告人は発言をしなかった旨の言い分がそのまま録取されていることに加え、Mからの問いかけに対して教団幹部が発言する状況を「将棋倒しのような会話」だったという独特の表現で供述していることなどからすると、その信用性は高いというべきであり、被告人の捜査段階の供述も、Qの供述を裏付けるものといってよい。
他方、被告人の公判供述は、信用性の高いQの供述や、捜査段階の被告人の供述に反することに加え、Iと行動をともにしながら、第二サティアンに入らずに待機した理由や、待機しながら「尊師の部屋」に行った理由等についての説明が曖昧で不自然なものであり、信用性に乏しいというべきである。
7(一) Mは、室内に入り、同人の前に正座したY1に対し、Y1が第六サティアンに侵入してY2を連れ出そうとした理由や、OがY2を連れ出そうとした理由を問いただし、OとY2の関係について、OがY2と肉体関係を持つなどしたことから、教団はOとY2を引き離したが、Oはそれを不満に思ってY2を連れ戻そうとした。OはY2を連れ戻した後、Y2と結婚する目的であったなどと説明した後、「お前はOの言うことを信じて教団に対してこういう行為に出た。それはものすごく大きな悪業であって、ちょっとやそっとで消せるものではない。確実に地獄に落ちるぞ。」などと言い、さらに、「お前は帰してやる」が、その条件は「お前がOを殺すことだ。それができなければお前もここで殺す。」、「ナイフで心臓を一突きにしろ。」などと言って、Y1にOを殺害するよう命じた。これに対し、Y1は逡巡し、引き延ばしを図ろうとするなどしたが、結局、自分が無事に解放されることを確認した上、Oの殺害を承諾した。
被告人は、MとY1のやりとりを聞き、それまでと異なり、MがY1をしてOを殺害させるつもりであることを認識し、Oを殺害することに疑問を持ったものの、既に教祖であるMが判断して決定した事項であったことから、その判断には深い理由があるのだろうから仕方がないと考えて自らを納得させ、特段反対の意思を表明することもしなかった。
(二) この点につき、被告人は、公判廷において、Mは、Y1に対し、Y2の病気が治らない理由やOとY2の関係等を穏やかな調子で話した後、「やりなさい。」などと遠回しな表現で暗示的に殺害を示しただけであり、「Oを殺す。」などという言葉は出ていなかったので、その場では、MがY1に対しOの殺害を指示したということを認識することはできなかったと供述する。
しかしながら、Y1が「尊師の部屋」に入室した後、MがY1に対し、第六サティアンに侵入した理由を問いただし、OとY2との関係を説明した後、Y1を助ける条件としてY1の手でOを殺すように言い、結局、Y1がこれを承諾したという点については、その場にいたY1、Q、Rが一致して供述しているところであり、捜査段階では、被告人もMがY1に対し「Oを殺して帰るか、それとも二人とも死ぬか。」などと言ったことからY1にOを殺させるつもりであることがわかった旨、Y1らの供述に沿う供述をしていることからすると、これらの供述は十分に信用することができる。
被告人の公判供述は、Mが「やりなさい。」という趣旨の発言をするまでのY1とのやり取りについて具体性に欠け、また、なぜY1がOを殺害するに至ったのか、「やりなさい。」という趣旨の言葉で、なぜY1はMがOを殺害するように指示したと受け取れたのかについて合理的な説明をなし得ておらず、信用性に乏しいといわなければならない。
8(一) その後、Mの指示により「尊師の部屋」に連れてこられたOは、両手に前手錠をされた状態で、同室に敷かれたビニールシート上に座らされた。Y1は、Oの目を見ながら殺害することができなかったことから、周りにいた者から受け取ったガムテープでOに目隠しをした。そのころ、ロープでOの頚部を絞め付けて同人を殺害することに決まったが、その前に、Mの指示で、Oに催涙ガスを浴びせかけることになり、Y1においてOの頚部にビニール袋を被せた上、そのビニール袋内に催涙ガスを噴射した。この後、Y1は、周りにいた者からロープを受け取り、これをOの頚部に一回巻き付けて絞め付け、さらにNの指示で、二つ折りにしたロープの輪になった末端に右足をかけ、他方の末端を両手で引っ張る形でOの頚部を絞め続け、そのころ、Oを窒息死させて殺害した。
Oは、催涙ガスをかけられ、頚部を絞められて激しく暴れたため、周囲にいたPらがOを羽交い絞めにするなどして押さえ付けたが、その際、被告人も、Y1がOの頚部をうまく絞められるように、Oの片足の大腿部付近を両手で押さえ付けた。そのうち、Oの動きが止まり、PがMに対し、Oが失禁したと報告したため、被告人は、Oが死亡したものと思い、Oの身体を押さえ付けるのをやめて離れた。
(二) この点につき、被告人は、公判廷において、Oが殺害された際、「尊師の部屋」内のビニールシート付近にはいたものの、Oの足を押さえたことはなく、身体に触れたこともないと供述する。
しかし、Qは、Oに催涙ガスがかけられ激しく暴れ出したことからOのそばに行ったところ、被告人がRと並んでOの足を押さえており、その後、首にロープを掛けろという声が聞こえ、Oは次第に暴れなくなったが、そのころにも、被告人がOの身体を押さえているのを確認していると具体的かつ明確に供述しており、その記憶の根拠として、被告人、Rの両名とも教団の秘密に関することにほとんど顔を出しておらず、非常にこの場にそぐわない者が二人並んでOの足を押さえていたからであると具体的に供述している。Qが被告人と同様に教団内では師のステージにあり、互いに既知の間柄であったことからすると、別人を被告人と誤認する危険性もないと認められるのであって、Qの供述の信用性は高いというべきである。また、Rは、Oが頚部をロープで絞められて暴れ出してからR自身もOの右足を押さえたことを認めた上で、室内にいた者のうち、M、同人の妻A、B、Qを除き、それ以外の者はOの周囲に近付いており、R以外の者はOの身体を押さえていたので、自分もなにかしなければならないと思ってOの右足を押さえた、左足も別の者が押さえていた旨供述しており、被告人が足を押さえていたかどうかの特定はできないものの、その場の状況についてはQの供述を裏付け、これを補強している。
ところで、被告人は、捜査段階においては、Y1がOの頚部をロープで絞め付けた以降、Oが激しく暴れ、Nか誰かから押さえろと言われたことから、Oの下半身、太股付近を両手で押さえ、Oの動きが止まり、Pが失禁したと言うのを聞いて、Oの身体を押さえるのをやめたと供述している。右供述は、被告人がOの大腿部を押さえ始めた時点について、Qの供述と齟齬があるものの、当時のOの暴れ方や押さえ付けるきっかけなどについて具体的、詳細に述べられていることに加え、頚部を絞められてOが激しく暴れている当時の状況に照らすと、室内にいた教団幹部の中で比較的下位の立場にある被告人がOの身体を押さえ付けるに至ることは、事の成り行きとして自然であって、Oの足を押さえた旨の被告人の捜査段階の供述は十分信用でき、この供述もQの供述を裏付けるものといえる。
他方、被告人の公判供述は、その前提となるOの抵抗状況やそれに対する教団幹部の対応等に関する供述がY1、Q、Rらの供述と大幅に異なっている上、ビニールシートのそばにいながら、激しく暴れるOを、被告人より高い地位にあるNやPらが押さえ付けているのに、被告人一人傍観していたなどと不自然な内容の供述であることから、信用性に乏しいというべきである。
9 犯行後、Y1は、Mから、一週間に一回、教団道場で修行を行うこと、事件について他言しないことを命じられた上で、解放された。また、Mは、Oの死体の処分をBに指示するなどして、妻A、Qとともに、この場を去った。Oの死体は、Bらにより第二サティアンの地下室に運ばれ、同所に設置されたマイクロ波照射器で焼却された。
他方、被告人は、Iに誘われて、死体の処分状況を地下室に見に行くなどした後、車で第六サティアンに戻った。
10 同年二月上旬ころ、被告人は、Iから、Y1が道場に来なくなったので一緒に捜してくれと依頼され、IとともにY1の所在を調査するなどしたが、そのうち、Y1が秋田市内のアパートにいることを突き止め、同月中旬ころ、被告人においてY1が居住すると思われるアパートの調査をし、Y1の居住事実を確認したことから、Iに連絡し、B、N、I、P、RらとともにY1を教団に連れ戻そうとしたが、Y1が警察に通報したことから、失敗に終わった。
三 以上の事実関係に照らすと、被告人は、Y1とOがY2を連れ出すために第六サティアンに侵入し、催涙ガスを噴射するなどしたことを知った後、Iの依頼を受けてIとともに第二サティアンに移動し、「尊師の部屋」内で、Mから、Oらを殺害するがどうかと言われ、他の教団幹部がこれに賛同したことから、教祖であるMや被告人よりステージの高い者がOらを殺害するつもりでいることを知りながら、これを仕方がないものとして受け入れ、さらに、MとY1の会話を通して、MがY1をしてOを殺害させようとしていることを認識しながら、教祖であるMの判断であれば深い理由があるのだろうとして自分を納得させた上、実際に、Y1がOの頚部をロープで絞め付けるなどして殺害しようとしたときには、その場にいた教団幹部とともに暴れるOの大腿部付近を押さえ付け、その結果、Oは窒息死しているのであるから、被告人は、Mの意を受け、他の教団幹部やY1と共謀の上、O殺害の実行行為を行ったと優に認めることができるのであって、被告人は、判示第一の殺人について、共同正犯としての責任を負うというべきである。
第三 判示第二の営利略取について
一 被告人は、Iらと、Kを営利の目的で略取する旨の共謀をしたことはなく、また、営利の目的をもって同人を拉致したこともないから無罪であると供述をし、弁護人も同趣旨の主張をするので、この点について検討する。
二 関係証拠によれば、以下の事実が認められる。
1 Kは、宮崎県小林市内の自宅において、「F旅館」の名称で旅館業を営んでおり、妻のEや娘のC、Uらが教団に入信して在家信者となったことから、その勧めもあって、平成二年八月、形式的に教団に入信し、在家信者となっていた。Kは、かねてから同市内にある自己所有の土地を市に駐車場として貸与していたが、平成五年一二月七日ころ、小林市土地開発公社との間で、同公社に対し、右土地を坪単価三万三〇〇〇円で売却する旨の合意に達し、平成六年三月六日、Kと小林市土地開発公社との間で、前記土地を九一四一万円で売り渡す旨の契約が成立した。そして、右代金のうち二七〇〇万円は同月九日鹿児島銀行小林支店のK名義の口座に、残金六四四一万円は同月二九日に宮崎銀行小林支店の同人名義の口座に、それぞれ入金された。
2 Uは、平成五年一二月ころ、教団幹部であるGから、教団に対して一〇〇〇万円のいわゆるお布施をし、そのころ教団が開発したパーフェクト・サーベーション・イニシエーション(以下「PSI」という。)を受けるよう勧められたことから、Gに対し、Uには一〇〇〇万円のお布施をするだけの資力はないが、Kが近々土地を売却するので、同人に一〇〇〇万円を貸し付けている姉のCがその返済を受けられれば、これをお布施してPSIを受けられるなどと話した。これを聞いたGは、当時、教団の東京本部長であったIにその旨の話をした。Kから無理をさせてでも取得した土地売却代金をお布施させることが同人に功徳を積ませ、同人を救済することになるとして、Kに薬物を使用して同人を眠らせ、自宅から拉致して教団施設に連れ込み、その意思に反してでも土地売却代金をお布施させようと計画した。その後、この計画はIが中心になって行うこととなり、平成六年一月ころには、Iは、東京都中野区野方にある教団附属医院(以下「AHI」という。)の医師であるHに右の計画を打ち明け、HとAHIの看護婦らの協力を依頼した。Hは、これを承諾し、そのころ、AHIの看護婦であったDに対し、Kを眠らせて連れて来る旨話をした。また、Iは、そのころ、教団の福岡支部長であったJにも連絡をとり、計画を説明し、その協力を取り付けた。さらにIは、そのころ、Cと電話でやりとりする中で、同女に対しても、薬を飲ませてKを眠らせ、PSIを受けに連れて行ってあげるなどと、計画を打ち明け、これに同意するよう説得した。Cも、そのころ、Uにその旨連絡した。
3 Uは、同年三月三日ころ、東京から小林市内に戻ってF旅館の手伝いをしており同月六日のKと小林市土地開発公社との売買契約に立ち会ったことから、売買代金総額が約九一〇〇万円であり、そのうち二七〇〇万円については契約成立の数日後に鹿児島銀行小林支店のK名義の口座に、残金の六四〇〇万円については、同月末までに宮崎銀行小林支店の同人名義の口座に振り込まれることを知り、その旨を東京にいたCに連絡するとともに、お布施用の現金を振り込むためK名義の郵便貯金口座を開設するなどし、さらに、同月一一日、Kの依頼で鹿児島銀行小林支店の同人名義の口座から現金三〇〇万円を引き下ろす際、二七〇〇万円が入金されていることを確認し、Cに連絡した。また、同月二〇日ころ、Uは、小林市の職員から、同月二八日か二九日に残金を振り込む旨の連絡を受けて、これもCに連絡した。
4(一) Iらは、間もなくKの下に残代金が入金になるとの情報を得たことなどから、同月二六日深夜ころまでには、翌二七日に計画を実行する旨を決め、AHIの医師でもあったS及び同人を通じてDに対して、準備を依頼し、同月二七日昼ころ、教団杉並道場一階駐車場付近にI、S、D、Cらが集まったが、そのころまでには、Cも、Kにお布施をさせるため薬物を使って同人を眠らせ、教団施設に拉致することを承諾しており、同月二七日夜にこの計画を実行する旨をF旅館にいたUにも伝えていた。
他方、Iは、当時、教祖であるMの付き人という立場にあったことなどから、信頼していた被告人をIのかわりにF旅館に行かせ、計画の指揮をとらせようと考え、Mにその旨の許可を得ようとしたが、Mから、I自身が現場で指揮をとるよう指示されたため、結局、被告人とともにF旅館に行くこととし、Mの説法会準備のために杉並道場に来ていた被告人を呼び出し、被告人に対して、「今夜宮崎に行くんだけども、一緒に行ってくれ。将来お布施をしてくれそうな人がいる。その人をAHIに運ばなくてはならない。」などと説明し、前記のとおりS、D、Cらと集まった際、その場において、被告人が所持していた携帯電話をSに貸与するよう指示したことから、被告人もこれに応じ、被告人の携帯電話とともに充電器等をIを介してSに貸し渡した。
(二) この点につき、被告人は、公判廷において、杉並道場では、Iから、説法会後、一緒に宮崎に行き、車の運転をしてもらうから予定しておいてくれとの指示を受けただけで、Iが宮崎へ行く理由や、お布施をしてもらうことについては聞いていないし、SやCからもこれらの点について聞いていないと供述する。
しかし、被告人は、捜査段階において、Iから、前記のとおり、「今夜宮崎に行くんだけども、一緒に行ってくれ。将来お布施をしてくれそうな人がいる。その人をAHIに運ばなくてはならない。」との依頼を受けたと供述しているところ、右捜査段階の供述は、被告人が黙秘、否認から自白に転じて比較的早い時点で述べられたもので、以後、一貫して維持されていることに加え、右供述が録取された時点では、捜査官側には、Iと被告人との会話内容を誘導して創作できるほどの資料もなかったこと、被告人は、捜査官から、杉並道場で井上から右の説明以上に、薬物を使用してKを眠らせ、教団施設に拉致するという計画全体を打ち明けられていたのではないかと追及されているが、この点は否定した上で、前記のとおりIから指示されたと供述していることなどからして、捜査段階の供述調書は、被告人の記憶どおりの供述が録取されたものと考えられ、その記載内容だけからでも信用性が高い。加えて、被告人の右供述は、Kからお布施を受け取ることになっているので宮崎に行ってほしいなどと計画の概要を被告人に話した旨のIの供述と、少なくとも、被告人の供述する範囲では一致していること、Iにしても、一時は、被告人に計画の指揮をとってもらおうと考えていたのであり、I自身の通常の運転手ではなく、不測の事態に備えて被告人に車の運転を依頼したという点や、被告人を同行すれば、結局は、Kを拉致する現場にも被告人を立ち合わせることになるという点からすると、少なくとも、計画の概要程度は被告人に説明することが自然であると考えられることからしても、被告人の捜査段階の供述は十分信用できるものである。
これに対し、被告人の公判供述は、単に、Iから説明を受けたことはないとするのみであり、何故に薬物を使用しての拉致という計画全体についての説明を受けたことは否定しながら、お布施を受けるという限度でIから説明を受けたことを認めたのかという点について何ら合理的な説明がなされておらず、信用性に乏しいといわなければならない。
5 被告人の携帯電話を受け取った後、S、D、Cは、Iの指示で、同日午後二時ころ杉並道場を発ち、空路で宮崎空港に到着し、午後七時前後ころ、Cからの電話連絡でUが準備したF旅館別館二階の一二畳間に入った(なお、F旅館別館(同市大字細野一五六七番地二)は、F旅館本館と道路を挟んで向かい側にある。)。
他方、Iは、Jと連絡をとり、Kの拉致計画を実行する旨伝えた上、Kを運ぶためのワゴン車と、Iらが乗るための乗用車を準備すること、Jは運転手とともに先にF旅館に向かうことなどを指示し、Jはワゴン車を準備した上、教団福岡支部の信者であったLにワゴン車を運転させてF旅館に向かった。
Iと被告人は、同日午後二時から始まったMの説法会に出席し、その後、信者との面談等をしてから、同日夕方、空路福岡空港に向かい、同空港から、教団福岡支部が準備した車に乗り、被告人が運転をしてF旅館に向かった。
6 Sらは、F旅館に到着後、Kを一旦眠らせるために、すりつぶした睡眠薬をうこん茶に混ぜて飲ませることとし、同日午後一〇時ころ、Uが、睡眠薬を混ぜたうこん茶を同旅館本館のKの居室に持参し、Kに勧めて飲ませた。また、JとLは、迎えに出たCと小林駅で落ち合い、UがKに睡眠薬を飲ませる前後ころには、F旅館別館二階の部屋に到着した。
7(一) 被告人は、Iを助手席に乗せて車を運転し、九州自動車道を走行しながらF旅館に急いだが、その途中、SからIの携帯電話に連絡が入った際、Iが「まだやるな。」などと言っていたこと、さらに、Kに睡眠薬を飲ませた後、Sから再びIの携帯電話に連絡が入った際、Iが「もう、やってしまったのか。眠ったのか。これからは公衆電話を使って連絡しろ。」などと言っているのを聞いた。
小林市内に入った後、Iの指示ではF旅館にたどり着けなかったことから、Iが携帯電話で連絡をとってCの出迎えを受け、同日午後一一時半ころ、F旅館別館に到着した。Iは、別館二階の一二畳間に入ったが、被告人はこの間、車内や駐車場付近で待機した。
(二) この点につき、被告人は、公判廷において、Iは、福岡空港において携帯電話で話していたことはあるが、車に乗ってからは眠っており、その間、Iと他の者との電話でのやりとりはなかったと供述する。
しかし、この点についても、被告人は、捜査段階において、高速道路の熊本、八代間を走行中に、Iの携帯電話に電話がかかってきて、Iが、「もうやってしまったのか。眠ったのか。後……分位で着くから。これからは公衆電話を使って連絡しろ。」(乙九。警察官調書(乙二二)では、「もうやってしまったのか、眠ったか、あと何分ぐらいでつくから待て、これからは、公衆電話を使ってかけろ。」)と言っていた旨供述している。この捜査段階の供述についても、被告人が黙秘、否認から自白に転じて比較的早い時点で述べられたもので、以後、一貫して維持されていることに加え、右供述が録取された時点では、捜査官側には、Iの電話での会話内容を誘導して創作できるほどの資料もなかったことからして、右供述は、被告人の記憶どおりに録取されたものと考えられ、その記載内容だけからでも信用性は高いというべきである。しかも、その後、Iが表現に一部異なる部分はあるものの、被告人の供述に符合する供述をしていること、D、CもSが携帯電話でIと連絡をとり合っていた旨、特に、Cは、Sが薬を飲ませることについて、携帯電話でIの指示を求めていた旨、Iの供述を補強する供述をしていること、Iは、本件拉致計画の指揮者であることから、睡眠薬をKに飲ませるに際しても、SがIに連絡をとることは極めて自然であることなどからすると、被告人の捜査段階の供述やIの公判供述は十分に信用できるものである。
なお、被告人は、Sが携帯電話の電源の入れ方を知らなかったのであるから、Iに連絡をとれるはずがないなどと供述し、CやDは、携帯電話が電池切れで使用できなくなったことを認める供述をしているが、被告人自身、携帯電話をIに渡す時点では電源をオンにしたまま渡したことを認めており、その後、携帯電話が使用できなくなったとすると、Cらが供述するように電池切れと認められるのであって、電池切れと供述するCやDがSとIとの携帯電話を使用しての連絡を認めていることからすると、電池切れになったのはIらとの電話連絡の後と認めるのが相当であり、この点は、前記認定を左右するものではない
8(一) 同日午後一一時四五分ころ、Iらは、KをF旅館本館の居室から連れ出すことにし、別館前の駐車場を経て本館に向かった。被告人は、駐車場においてIらと合流し、その後に続いた。被告人は、この際に、教団医師であるSと看護婦であるDが参加していることを認識した。本館においては、U、S、Dが先にKの居室に向かい、UがKの身体を揺するなどして目を覚まさないことを確認した後、SとDが室内に入り、DがKの右腕に睡眠薬を静脈注射した。この間に、Lがワゴン車を本館の玄関前に横付けにし、I、被告人、L、Cらが、本館の玄関脇から二階に上がった。そして、I、被告人、Sらが、半昏睡状態のKの身体を持って同人を一階に運び下ろし、玄関を経て、後部座席を倒したワゴン車内に押し込んだ。ワゴン車には、S、D、Uが乗車し、Kは、睡眠薬等の点滴を受けた状態で、Uの運転により、同月二八日午前零時前後ころ、AHIに向けて出発した。なお、Uは、宮崎自動車道の小林インターまでの道がわからなかったことから、被告人が運転してきた車にI、Cが乗車し、被告人が運転して小林インターまで先導した。この間の車内で、Iは、Cに対し、Kのために教団にお布施する金額について、六〇〇〇万円全額をお布施するように説得したが、Cは、自分がKに弁償できる金額は二〇〇〇万円程度と考えたことからこれを拒んだ。その後、Iと被告人は、付近のファミリーレストランで食事をとった後、F旅館に宿泊した。
(二) この点につき、被告人は、公判廷において、被告人自身は、Kの身体に触れたこともなく、また、小林インターまでUのワゴン車を先導したこともないと供述する。しかしながら、被告人は、捜査段階において、右事実をいずれも認める供述をしていることに加え、被告人がKの身体を持って運んだことについては、現場にいたU、D、Iがいずれも被告人もKの身体を持って運んだ旨一致して供述しており、特に、Uは、Kの身体を運ぶ被告人を見て初めて被告人が来ていることに気付き、この人も来たんだと思った旨、Dは、普段はステージの低い人に触るとエネルギー状態が悪くなると言って人に触ることを避けていた師という高いステージにいるIや被告人がKの身体を持っていたことで断言できるとそれぞれ記憶に残った根拠を明確に述べていることからも、捜査段階における被告人の供述や、U、D、Iの供述は信用することができるし、小林インターまで先導したという点については、現場に赴いたI、U、C、D、Jが一致して認めているところであり、同様に信用することができる。
被告人の公判供述は、被告人の捜査段階の供述や、関係者の一致した供述に反し、一人だけこれと異なる内容の供述をするものであって、およそ信用することができない。
9 Iは、Cが、土地売却代金の残額である六〇〇〇万円全額のお布施を承諾しなかったことから、CをKの付き添いとして東京に行かせ、Uを呼び戻して説得し、六〇〇〇万円全額の預金の払戻しを受けてお布施をさせることにし、Cに杉並道場に行くよう指示する一方で、Uを呼び戻すことにした。この際、被告人は、Iの指示を受け、Cに付き添って杉並道場まで同行したが、Cと一緒に行く理由については、Iから説明を受けなかった。
他方、Kを乗せたワゴン車は、九州自動車道及び中国縦貫自動車道を経て走行中、同日午前七時四〇分ころ、岡山県内の中国縦貫自動車道上において、Uが運転を誤って自損事故を起こし、走行不能となった。そこで、同自動車道新見インター付近で他のワゴン車に乗り換え、行き先をAHIから第六サティアンに変更し、SとDが運転して同所に向かい、同日夕刻ころ、第六サティアンに到着したが、この間、Kが目を覚ましたことはなかった。他方、Uは、Iに呼び戻され、JR新見駅からF旅館に戻った。
その後、Uは、Iの説得により六〇〇〇万円全額のお布施に承諾し、Iの指示により、同月二九日及び三〇日の両日、宮崎銀行小林支店等において、K名義の口座から土地売却代金の払戻しを試みたが、名義人本人の意思を直接確認することができないという理由で払戻しを断られたため、これを断念した。
三 以上の事実関係に照らすと、被告人は、教団杉並道場において、Iから、「今夜宮崎に行くんだけども、一緒に行ってくれ。将来お布施をしてくれそうな人がいる。その人をAHIに運ばなくてはならない。」と聞かされており、お布施をさせる目的で特定の人物をAHIに運ぶということになるということは十分認識していたと認められる。また、F旅館に向かう車中での、「もう、やってしまったのか。眠ったのか。これからは公衆電話を使って連絡しろ。」というIの電話でのやりとりを聞いていることから、AHIに運ぶことになるであろう人物が何らかの方法により眠らされたこと、また、公衆電話を使って連絡しろという点は、Iも供述するとおり、Sの所持していた携帯電話に通信記録が残らないような配慮ということができるのであり、少なくとも、今後行われるであろうことが合法的な行為ではないことは被告人においても認識できたと推認できる。そして、その後、被告人は、F旅館別館駐車場において、AHIの医師であるSや看護婦であるDが現場に来ていることを認識しているのであるから、車中でのIの電話での会話内容と併わせ考えれば、Sらが薬物を使ってAHIに運ぶ人物を眠らせたということも十分認識可能といえる。その上で、被告人は、F旅館本館のKの居室から、眠りこけているKを運び出し、ワゴン車後部座席に押し込んでいるのである。そうすると、被告人は、お布施を得る目的で、薬物等を使用し眠らされている人物を教団施設であるAHIに搬送するということを認識しながら、Iらとともに同人を居室内から自動車に乗車させるという略取の実行行為の一部を行ったと合理的に推認することができる。
ところで、被告人の捜査段階における供述は、Iからの指示やIの電話でのやりとりなどから、IがKから多額のお布施を得る目的で薬物等で同人を眠らせた上、同人の意思に反してAHIに連れていくつもりであることを認識したが、自分よりステージの高いIの指示には従わなければならないと考え、結局、Iらその場にいた者とともにKの身体を持って居室から運び出し、玄関前に停車していたワゴン車の後部座席に乗車させたこと、その際、被告人は、Kの足を持ったことをそれぞれ認める内容になっているが、この供述は、前記認定に沿うものであって十分信用することができる。そして、被告人の捜査段階の供述を中心に、関係証拠を総合すれば、被告人は、Kから教団に対するお布施を得るため、その意思に反して同人を教団施設に拉致することを認識しながら、Iらと共謀の上、薬物によって半昏睡状態に陥ったKをその居室内から運び出し、搬送用の自動車内に同人を押し込むなど、略取の実行行為の一部を分担したと認められるのであって、被告人は、判示第二の営利略取についても、共同正犯としての責任を負うというべきである。
(法令の適応)
罰 条
第一の行為 平成七年法律第九一号附則二条一項本文により、同法による改正前の刑法(以下「改正前の刑法」という。)六〇条、一九九条
第二の行為 改正前の刑法六〇条、二二五条
刑種の選択
第一の罪 有期懲役刑
併合罪の処理 改正前の刑法四五条前段、四七条本文、一〇条、一四条(重い第一の罪の刑に法定の加重)
未決勾留日数 改正前の刑法二一条(七七〇日算入)
訴訟費用 刑事訴訟法一八一条一項ただし書(不負担)
(量刑の理由)
一 本件は、オウム真理教の幹部信者であった被告人が、教祖であるMや教団の幹部らと共謀の上、脱会した元信者を殺害したという殺人の事案と、同教団の幹部ら数名と共謀の上、信者に多額のお布施をさせる目的で、同人を睡眠薬で眠らせて教団施設に拉致したという営利略取の事案である。
二 1 まず、殺人についてみるに、本件犯行は、教団を脱会した元信者であるY1と被害者が、教団施設に侵入して、Y1の母親を連れ出そうとしたことなどから、教団の教義からすれば、被害者は教団に対する敵対行為を働いたとして、教団の独自の論理に基づく私的制裁として行われたものであって、Mを中心とする教団の組織的な犯行であるとともに、その動機も著しく反社会的なものであり、酌量の余地は全くなく、悪質極まりない。犯行態様は、被害者と一緒に侵入したY1に殺害を命じ、被害者の頭部にビニール袋を被せ、その中に催涙ガスを噴射して苦痛を与えた上、助命嘆願の叫びをあげ、必死に抵抗する被害者の身体を被告人ら教団幹部が押さえ、Y1がその頚部にロープを巻いて絞め付け、窒息死させたというものであり、残忍で情け容赦のない冷酷非道なものである。本件犯行の結果、被害者は、多大な苦痛に曝された上、未だ二〇代の若さにしてその生命を奪われている。しかも、殺害後、被害者の遺体は、マイクロ波を用いた死体焼却装置で焼却され、一片の遺骨も残らなかったのであり、被害者の無念はもとより、唯一の息子を奪われ、衝撃の中で病死していった被害者の父親や、残された母親の絶望感は察するに余りある。それにもかかわらず、これまで被告人側からは何らの慰謝の措置も講じられておらず、被害者の母親が、当公判廷において、被告人を含め、犯人の極刑を望むと述べていることも当然といわなければならない。さらに、教団では、その後、Y1が所在不明になったことから、その口を封じるため行方を追及し、Y1を教団施設に拉致しようとするなど、犯行後の情状も悪質である。
被告人の個別の情状をみるに、本件犯行は、Mが中心となって殺害の共謀を行ってはいるが、被告人は、被害者が殺害されるほどの理由はないと思いながらも、Mの判断には何か深い理由があるはずであるから従うべきであるとして、Mの指示に盲従しており、やはり、動機に酌量の余地はない。また、被告人は、暴れる被害者を押さえ付けるなど犯行を行う上で重要な役割を果たしている。さらに、犯行後においても、Y1の行方を追跡し、その動静を監視するなどもしているのであって、これらの事情からすると、その刑責は重大である。
2 次に、営利略取についてみるに、本件犯行は、教団にお布施させるために財産を奪うことは、財産を奪われた者にとっても救済になるという教団の特異な論理にのっとり、被害者の土地の売却代金を無理やりお布施させる目的で行われたものであり、その動機は、反社会的で、極めて悪質である。また、本件犯行は、教団の東京本部長であったIが指揮し、教団在家信者である被害者の娘らから土地売却代金の入金日等の情報を入手し、教団福岡支部長に被害者を搬送するためのワゴン車等を用意させ、教団医師及び看護婦には被害者を半昏睡状態にするための薬物を準備させるなど、それぞれ役割分担を決め、周到に準備した上で敢行されたものであり、教団ぐるみの組織的、計画的犯行でもある。被害者は、宮崎県で平穏な生活を送っていたのに、突然、薬物によって半昏睡状態に陥らされ、意識を回復したときには教団施設内で軟禁されており、その後、約五か月間もの長期にわたり、軟禁状態を続けられて修行を強要されるなどし、解放されたときには体重が約一四キログラムも減少していたというのであって、その肉体的、精神的苦痛も甚大であり、結果も重い。
被告人の個別の情状をみるに、被告人は、Iから宮崎行きを指示され、承諾した当初は計画の全貌を把握していなかったものの、関与の経緯の中でこれを認識したにもかかわらず、Iが教団の利益のために動いていることであり、地位の高いIに帰依するのが教団の教義に適うなどと考え、結局は、自らの意思で計画の実行に身を委ねたというものであり、動機に酌量の余地はない。本件犯行は、Iが中心的な立場で、計画、実行したものであるが、被告人も教団内の師として、共犯者中でIに次ぐ高い地位にあった上、Iの運転手として福岡からF旅館まで車を運転し、被害者を居室から運び出す際にも、同人の身体を持って階段から下ろし自動車内に押し込んだ上、同人を乗せたワゴン車を小林インターまで先導するなど、その果たした役割も重大である。
3 加えて、被告人は、本件各犯行について、共謀の事実及び実行行為そのものを否認し、些細なことにこだわって不自然、不合理な弁解に終始するなど、全体として反省の情にも乏しいといわなければならない。
三 そうすると、本件のいずれの犯行においても、被告人は、Iに指示されるまま、事態を十分把握しないで各犯行現場に赴き、その場の成り行きで各犯行に関与してしまったという点で、被告人の関与そのものは偶発的といえること、殺人事件については、教団の信者として教祖であるMの指示に従わざるを得ないという側面があり、また、営利略取事件については、被告人より教団内における地位が高いIの指示に従わざるを得ないという側面があったという点で、なお、従属的犯行と評価し得る余地もあること、逮捕後は、被告人がこのような違法行為に関与する原因となった教団から脱会する旨の意思を表明し、脱会届も提出していること、これまで業務上過失傷害罪による罰金前科一犯があるだけで、ほかに前科はなく、正式裁判を受けるのは今回が初めてであることなど、本件で認められる被告人に有利な事情を十分考慮しても、本件各犯行の悪質性、重大性等にかんがみると、被告人に対しては、主文の刑をもって臨むのが相当である。
(裁判長裁判官 仙波厚 裁判官 宮崎英一 裁判官 井下田英樹)